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丹沢案内

今では丹沢をテーマにした登山ガイドやマップの類いは書店に行けば数多く並んでいますが、紀行文学や小説などの分野となると、丹沢モノはあまり見かけることはないようです。例えば1970年代中期に出版された現代日本紀行文学全集(ぽるぷ出版 全12巻)は明治から昭和の戦後までの紀行文をほぼ網羅したようなもので、國木田独歩から永井荷風、戦後になると内田百閒、井伏鱒二、北杜夫まで総数百名ほどの歴代の文学者の旅行案内をそれぞれの個性で、たっぷりと楽しむことができます。

ところが、この全集では丹沢について案内してくれるのは柳田國男だけで、それも紀行文学ではなく、柳田らしく「游秦野記」という名の秦野に伝わるある名家の伝記語りにすぎません。このように、おそらく昨今の登山ブームが誕生する以前の丹沢は、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた阿夫利神社で有名な大山を除くと、ランドマークとしてのシンボリックなイメージがなかったからかも知れません。

一方で意外な所から丹沢という地名を発見することもあります。最近お亡くなりになった丸谷才一さんは彼の評論集『みみづくの夢』(中央公論社1985年)のなかで、自叙伝の最高傑作は福沢諭吉の『福翁自伝』に決まっているのだが、これと肩を並べるほどの傑作は荒畑寒村の『寒村自伝』なのである、と絶賛しているのを読み、さっそくこの自叙伝を読んでみたのですが、この『寒村自伝』の中に丹沢の話しが 出て来るのです。

今の若い人で彼の名を知っている人はほぼ皆無ながらも、荒畑寒村と言えば、清楚な社会主義者として一生を終えた、いわば敗者としての生涯を送り続けた頑な人という印象が強いのですが、明治の時代に横浜の今の南区で育った寒村少年は、当時の横浜は遮る建物もなく、都市の空気も澄んでいたのでしょう、近所の丘から見える丹沢の山々の優美が気になり、ある日ついに意を決するように、実際の距離感もつかめぬままに、大胆にも大山の方角に向けてもちろん徒歩で出発してしまいます。しかし、ちょうど上空の月を追いかけて走っても走っても1cmも近づくことができないように、あこがれの大山は行けども行けども少年の目には遠いままで、夕方になっても家に戻って来ない寒村少年を心配して家族は大騒動になります。無茶苦茶と言えば無茶苦茶な少年ですが、誰にでもこれに近い、幼い日の経験は一度や二度はあるのではないでしょうか。

私は、この歳になってもクルマが東名高速に入り、丹沢を右側に眺めるようになると、ついついいっそのこと秦野中井とか大井松田で降りてみようかという誘惑にかられることが多々あるようで、この気持ちは今後も年齢とは関係なく、いつまでも持続するものであって欲しいと思うこの頃です。

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