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森の保存と森の保全を比べてみる(補足)

前回の備忘録《森の保存と森の保全を比べてみる》を改めて読み返してみると、イントロは沖ノ島という個別具体的な自然についてだったこともあり、文章にも安定感があったのが、そのうち次第にテーマが大きく抽象的になってしまい、未だに道半ばの私には手に負えなくなってしまった感もあって、いくつかの課題が未消化のままだったり中途半端のままに通り過ぎてしまったことに気がつきました。そこで言い訳のようですが、前回の気になった部分に補足を施すことで、多少なりともテキストとしての完成度を上げることを試みてみようと思う次第です。(以下、囲み中の文面は前回の備忘録より抜粋した「気になった部分」です。)

鎮守の森は、すべてが《ふるさとの森》ではなさそうだ。

私の社寺林=鎮守の森についての話しには上の赤線部のようなフレーズが決まって出てきます。これは宮脇昭さんの本を元に、いくつかの神社を訪れてそこにしかないような常緑広葉樹林の景観から、そう考えるようになったのですが、他にも、例えば足田輝一さんの『樹の文化誌』(朝日選書  1985)にも神社と常緑広葉樹の歴史的な深い関係が次のように述べられており、大変興味深い視点なので、少し長いのですが、その部分を紹介させていただきます。

例えば、縄文時代にさかのぼってみると、人口はまだ少なく、農耕も発達していなかった日本列島の、東北部や高地を除くほとんどの山野は、ほのぐらいまで茂った照葉樹林に覆われていた、と想像される。
照葉樹林とは、シイ、カシ、クスノキ、ツバキなど、葉の表面に光沢のある常緑樹を主にした森林のことだ。地球上では、ヒマラヤの麓から、中国大陸の中南部、朝鮮半島の南部を経て、日本列島の大部分に帯状にひろがっていたと思われる、森林の原型なのである。
おそらく、日本人の祖先はこの照葉樹林のあった大陸から渡ってきたものだろうし、私たちの農耕文化の多くも、この照葉樹林の中で発生したものであったろう。
だから、日本人の原生の宗教であった神道も、この照葉樹林のなかから生まれてきたものではなかったろうか。神事に用いられる植物を調べてみると、照葉樹林の草木が多く登場してくることも、それを物語っている。一例をあげれば、神事に必ず使われているサカキやヒサカキも、照葉樹の仲間である。神域林を訪ねた時、伊勢神宮の神事についても、いろいろ聞いてみた。毎朝の神饌は土器にトクラベという木の葉を敷いて、その上にのせるというが、これはミミズバイという常緑樹の葉であった。これらの神饌をつくる火は、いまもヤマビワ材の火きりを、ヒノキ板の上で摩擦させておこすのである。このヤマビワも、常緑樹のひとつだ。(『樹の文化誌』p177-178)

このように、寺はともかく神社はもともと常緑広葉樹との結びつきが強いらしく、他にも探せばいろいろとありそうで、例えば『記・紀』や『万葉集』にも登場する奈良盆地の大神(おおみわ)神社は国内でも最も古い神社の一つに数えられるそうですが、ここには神殿はなく、背後の三輪山をご神体とするため、参拝者は直接三輪山を仰ぎ見て拝むのだそうです。人びとは山それ自体に神を見たり、感じたりしたのでしょうか。

たしかに、現在の沖ノ島に拡がるような自然のままの常緑広葉樹林をたたえた山を見ると、明らかにヒトの手が入って人工的な匂いがする人工林や雑木林と違って、昔の人々がそこに超自然的な存在を感じたとしても不思議ではありません。日本の古い時代の自然崇拝の名残りのようなものが、歴史をまたいで今も伝わっているようです。

ところが、ここから問題なのですが、私の住んでいるすぐ近所にあり、正月の初詣には欠かさずお参りするほどの小さな神社に関する限りは、困ったことに、これまで述べてきたことがまったく当てはまらないような鎮守の森を眺めることになります。

拝殿を囲むように配置されたこの神社の樹林は、常緑広葉樹は見当たらず、その代わりにスギやマツの針葉樹とケヤキやコナラの夏季(落葉)広葉樹が植林され、それも狭い面積でしかないために、これまで信じてきた鎮守の森のイメージとは、かけ離れた様相を見せてくれるのです。おそらく、神殿を建てた後で、この建物を守り囲むようにスギやマツの苗木を植林したようで、でも、これは例外的な事例ではないかと、長い間そう思っていました。(念のために、この神社から数キロメートルしか離れていないもう一つの神社まで足を運ぶと、そこには宮脇さんが意味する立派な常緑広葉樹林が拡がっていたのですから)

ところが、この近所の神社の樹林のタイプを例外扱いするのも躊躇してしまいそうな文献を見つけてしまったという訳です。《明治期「村の鎮守」の植生と地域社会 ―東京都多摩市域の地域史料をてがかりに― 畔上直樹》というpdf資料がそうですが、これによると、少なくとも、著者である畔上直樹さんが研究の対象とした神社の森の樹種は、江戸時代まではスギやマツの針葉樹が主木としての位置を堂々と占め、ついでケヤキやコナラの夏季(落葉)広葉樹の割合で植林されていたことがわかってきました。これまで関東以西の鎮守の森は、神が宿る神聖な空間として、立入禁止の自然の環境のままに置かれた常緑広葉樹林に違いないとカンタンに考えていたのが、これもカンタンにひっくり返ってしまった訳です。

この資料の詳細は上のリンクを開いて、ご覧になっていただきたいのですが、昔は生活上の必要が何事にも優先され、利用価値に乏しかった常緑広葉樹よりも、建物の造築や補修に必要となる針葉樹やもっぱら燃料として欠かせなかった夏季(落葉)広葉樹の需要の方が優ったということなのでしょうか。社寺林といえども、そのオーナーはもとより近辺の人びとによって、彼らの生活のために、それが大いに活用されていたとしても、別段不思議ではありません。上述の足田輝一さんの本にあった伊勢神宮ほどになると少し話しは違ってきますが、人びとの暮しに直結していたような神社の場合は、むしろ畔上直樹さんの説がスタンダードだったのかも知れません。

畔上さんによると、この人びとと社寺林の密接な関係が断ち切られたのは、明治になってからの1875(明治8)年。政府による地租改正事務局達の「社寺境内外区画取調規則」に拠るといいます。いわゆる社寺の中心とその周辺が分割される「引き裂き上知」の措置がとられ、鎮守の森を含む社寺の周辺部は官有地化されてしまったために、それ以降は原則禁伐となったそうです。そうなると、関東地方以西の低地では土地本来の植生ではない針葉樹や夏季(落葉)広葉樹もヒトの管理なしにはこれまでのように育つこともできず、やがて潜在自然植生である常緑広葉樹の進出を許し、次第に消滅してゆくプロセスに入っていたのかも知れません。

この「引き裂き上知」から今年で150年近くになり、その間時代に翻弄されたといってもいいような扱いを受けてきた鎮守の森の運命が気になるところですが、宮脇昭さんが彼の著書のなかで書かれているように《‥‥(神社の樹林を)神奈川県教育委員会の依頼で1970年代に現地調査した結果では、すでに高木、亜高木、低木、下草がそろった、すなわち最低限の森の生態系が維持されているような鎮守の森は、たった40であった。かつては2,850あった鎮守の森が、戦後わずか30年足らずで激減したのである》(『鎮守の森』新潮文庫  2007年  p19-20)という有様です。この調査は今から40年ほど前の状況なので、現在はおそらく更に取るに足りないような数になっているのではないでしょうか。

人類が忘れてしまわないうちに、私たちが《潜在自然植生》の森を作ろうとする訳はこんなところにもあります。

宮脇式の混植・密植の植樹法の説明には、写真やイラストが欠かせない。

上部の特に赤いアンダーラインで述べたような作業手法については、文字だけではなく実際の植樹現場の写真やイラストを紹介することで、これを読む側の理解がよりスムーズになることは言うまでもありません。この備忘録で以前使った写真やイラストがストックされているので、遅きに失した感もありますが、ここで転載しておきます。以下の写真は、昨年6月のnpo法人国際ふるさとの森づくり協会が主催した《ふるさとの森専門家研修》参加時に撮影したものです。

*これらの植樹作業のプロセスを撮った写真は、当日の作業にも参加されたeri58ndesさんからお借りしたもの。掲載の許可もいただいたものです。この場を借りてお礼を申し上げます。貴重な記録としてキチンと残すことができ、大変助かりました。ありがとうございました。
◎追記:また、付け加えると、連番写真番号6にある赤マル印 a のなかの苗木は、およそ一年後この植樹現場を再び訪れてみると、雑草に囲まれながらも順調に成長していることを確認することができました(下の写真)。本来であれば、植樹から3年間ほどは雑草の勢いが強いため、定期的な雑草刈りが欠かせないのですが、植樹時に、これでもかというほどに厚めのワラを敷き詰めて、雑草の生育を食い止めたつもりだったのですが、予想したよりも雑草の生命力は旺盛で、下の写真のようにワラの間隙を縫っていたる所から顔を出しています。加えて、植樹地の周囲からはツタが我が物顔で張り出して来ており、当日はさっそく除草してしまいました。
そして、敷き詰めたワラやロープも雨風に流されたり飛ばされたりすることなく、しっかりと地面に張り付き、一年後も苗木を守る役目を果たしていることがわかります。これらの植物で作られたワラやロープは、苗木の成長とともに次第に分解のプロセスに入り、樹木の生育を支えてくれる養分として地中に溶け込み、ムダなく再利用されることになります。


宮脇昭さんの著作物から写し取ったイラストも、念のために置いておきます。写真と合わせてご覧いただくと《宮脇方式の混植・密植》の理解がより深まると思われます。

人工林の保全に費やされる私たちの税金のことも、少し深掘りしてみる。

という訳で、一体どれほどの金額がどんな事業に使われているのか?私が住んでいる神奈川県の場合を見てみましょう。過去録で県が進めている水源林再生政策について論考した、そのページで使ったグラフから引用してみます。

神奈川県は、全国でも都市化が最も急激に進行した県の一つであり、都市化と共に重要な課題となる《県民の命の水》を確保することへの強い問題意識があったのか、しっかりした長短期の水源地・水源林政策を進めてきました。毎年夏が来ると、関東地方では度たび水不足、渇水危機などと騒がれますが、神奈川県だけは常に安定した水量を保っており、県民は水の心配なしに夏を過ごせることも、その証拠の一つです。

この円グラフでお分かりのように、県は民間の管理放棄されたスギ・ヒノキの人工林の管理を山の持ち主に代わって《水源環境保全・再生》事業として行なっていることがわかります。今はその長期計画の3期目にあたり、5年間で200億円ほどの金額を投下しようとしており、そのおよそ2/3が人工林や里山の雑木林の再生・保存に使われているようです。

次に、この棒グラフは《神奈川県森林再生50年構想》からのもので、管理放棄が広がり荒廃が進む現在の県内の森の状態を、50年後に健全なものに回復した場合の面積の変化を指し示しています。

ここでは広葉樹林と人工林の二つに大別していますが、ここでいう広葉樹林とは、ケヤキやコナラなどで構成される里山の雑木林および丹沢山系など標高800m以上の高地に拡がるブナ林を指しており、どういう訳か常緑広葉樹は《林内が暗いために水源林には向かない》*という、何が何だかさっぱり訳がわからない理由でもって、最初から除外されていることは、私の備忘録で何度も取り上げていることです。

*神奈川県の水源林再生事業で、現場での作業指針となる《水源林広葉樹林管理マニュアル》に記載されているこの稚拙とも超重要ともいえるような問題の一行について、私の備忘録では潜在自然植生のビギナー&老学徒としての立場から繰り返し反論を試みているのですが、その直近のものは《常緑広葉樹林は植生の悪例でしょうか》中に記載しています。ここで、私にとって長年の謎でもあった神奈川県の《常緑広葉樹林は林内が暗いために、水源林には向かない》とするその理由を、大胆な仮説とナイーブな推理を元に解き明かそうとしていますので、興味のある方はご覧ください。

また、十二分に成長し伐採期が来ているというのに、伐採も運び出すこともできない人工林は、少しずつ落葉広葉樹との混交林に変えていき、50年後にはその面積を半減することを目指しているようです。こうして50年後には、東京ドームにすると約18,000個にも相当する広さの健全な森林84,100haが生まれるというのですが、現在とほぼ同じタイプの同じ量の森林を健全に保全し続けるためには、この森林があり続ける限りは年間4,000,000,000円ほどのお金を県民のポケットから永遠に調達し続けるしかありません。

その一方で、人口の減少、とりわけ税金を納めてくれる生産人口の減少だけでも心配ですが、加えて多様な働き方改革という名の政策による(賃金の上昇が見込めないパートやアルバイトなど)非正規雇用の急速な増加による税収の低下を考えると、私などは最初に戻って、繰り返しになりますが、原則お金がかからない上にそこには豊かな生態系と自然環境をかたち作るという《潜在自然植生》で森の環境を支えることもソリューションの一つではないかと、思ってしまうのです。

*この地方自治と税金のこと、特に森林保護について詳しくは過去録《植生トレンド考2:tv番組《縮小ニッポンの衝撃》から植生の近未来を考えてみる》をご参考ください。
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