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潜在自然植生を拡げる事業とnpo

先日、npo法人国際ふるさとの森づくり協会(ReNaFo)が主催した《ふるさとの森づくり専門家研修》に参加する機会に恵まれて、改めて《潜在自然植生》の大切さに心を動かされてしまったことは、この備忘録にも3回にわたって綿々と書き記してしまいましたが、と同時に、この研修会を主催したレナフォの皆さんが持っている知識やノウハウはもちろん、彼らの揺るぎない信念や目標とする高みみたいなものにも触れることができ、今までにない至福の時間を持つことができました。私などは到底及ぶこともできない、後ろの方からその後衛をやっとの思いで付いて行くような内実しか持ち合わせていないことも、発覚してしまったのですが。

特に《ふるさとの森づくり》が持っている《普遍的な森の作りかた》は、今後の事業戦略の立て方によっては、山々を森の荒廃から救い、ヒトが住む町や村を災害から守る大きな自然の装置に育て上げることも、可能になりそうな気持ちになったのです。これからはレナフォの皆さんがnpo法人として《ふるさとの森づくり》事業の優位性とメリットをどうやって、どこに向けて訴求するのか、これが事業成功の大きな分かれ目になるのではないでしょうか。

ところで、npo=nonprofit  organizationは、一般的にはその名の通り、非営利での社会貢献活動や慈善活動を行う(市民)団体のことで、より厳密には特定非営利活動促進法に基づいて国または自治体から認証を受け、法人格を取得したnpo法人のことを指すようです。また、非営利という冠が付いていても、事業やその組織・団体を維持し大きくするために収益を上げることには、もちろん制限はありません。最近の傾向としては、国や自治体の財政逼迫を受けて、行政とnpoが協力し合いながら、社会的な課題に対応するという協働の関係が定着しているようです。

ところが、行政とnpoの《協働の関係》の中身はといえば実に幅が広く、私の貧しい経験から見ても大変興味深いものがあります。私が《潜在自然植生》のことも知らず、丹沢の森が荒れていることを前にして、ただ漠とした不安を抱いていた頃、丹沢の緑を守るというたくさんあるnpoの一つに1日体験入会を試みたことがあります。集まった皆さんは、定年後の楽しみをこのnpoに求めて来たような、社会経験も豊富に見える団塊の世代です。そしてこのnpoを率いる理事長は大変温厚そうな、組織調整タイプの方で、彼の周りに集まる人々のボスへの信頼感は部外者の私にもすぐに感じられるほどでした。

ところで、彼らの当日の活動は、神奈川県下の森林公園にある里山ゾーンの下草刈りでしたが、スケジュール表の次の予定も、ある小学校の校庭に植林された環境林の、これも下草刈りの作業のようでした。おそらく雑木林や人工林の林床管理を得意分野としているnpoのようでした。彼らのその打ち合わせの様子が私には興味深く印象に未だに残っているので、その様子をを少し写し取ってみます。次回の小学校での作業について、まず参加者が分乗する車の手配に時間を要しました。最後の2〜3人を乗せる車の提供を申し出る人がなかなか名乗り出てくれません。次に、教室で小学生を相手に話す森の働きと大切さの講義を誰が担当するのか、下草刈りよりも講師のほうが楽でよさそうですが、自ら手を上げるのは憚られるのか、これもなかなか決まりません。最後に理事長の指名でようやく解決したという状況です。

私はこの日、末席に座ってただ事の成り行きを眺めていたのですが、仕事の発注—受注に伴ういわゆる権利—義務の関係や決断—実行などビジネスライクなやりとりしか経験のない私のような者には、慈善活動という名のボランティアの真髄を見せつけられたような思いになりました。

一つは、本来は税金で補うはずの自治体の、責任が伴う事業をボランティア任せにしてしまっている、その光と影の問題です。行政にとってこの《協働の関係》は冒頭でも触れたように財政的には大変都合がいいものです。上記のケースでは、教室での講義には講師料として10,000円ほどもらえると理事長が付け加えた記憶が私にはあり、(他にも話しには出さなくとも、作業料が設定されているにしても)車についてのやり取りを眺めていると、クルマもガソリンも提供者の自己負担になるらしい様子でした。これでは、キゼンとした態度の人は堂々と提供拒否ができて、気のいい(弱い)人にいつもお鉢が回ってきそうです。このレベルになると、ボランティア活動の範疇には入らない問題のようにも見えますが、こういうレベルの蓄積が、実は業務品質を引き下げてしまうことも事実です。つまり、こんなレベルでの問題を抱えている行政とnpoの《協働の関係》は、本当に大丈夫だろうかと、不安になってしまう訳です。

さらに、環境林の下草刈りというこの《協働の関係》には責任ある業務が成立するのだろうか。業務をスムーズに進めるためのPlan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)という一連の行政のプロセスはうまく機能するのか?などなど。考え始めると、キリがありません。

他方私の知り合いに、活動分野は環境とはかけ離れてはいますが、理事長以下十数人の専門スタッフが年間数千万円を事業対価として獲得し、会社員と全く変わらない《責任と義務》が伴う仕事をしているnpo職員もいます。この場合も非営利の社会貢献活動になるそうです。

と、そんな深刻な顔をしないで、どうせ皆さんは社会貢献の熱意で動いている訳だから、もっと明るく気楽に行こうよ。と言われ、木漏れ日が差し込む雑木林の緑に囲まれての作業だけを考えると、たちまち気持ちは楽しくなってしまうのですから、困ったものです。

npo2では、《潜在自然植生》の学徒が目指そうとする《ふるさとの森づくり》事業は上で紹介したようなnpoでも実現可能でしょうか。言葉を換えて言えば、社会貢献活動や慈善活動として持続的に《ふるさとの森づくり》をやり遂げることが可能でしょうか。

結論を先に言えば、それは可能でもありその反対でもある、ということになります。この事業の目標をどこに定めるかによっても、事業の基準も規模も内容も異なってくるからですが、ここから先は、実際に事業に関わっていこうとする、その人それぞれの考え方や判断に任せるしかありません。

■参考:《神の見えざる手》
今回のように、社会貢献とか慈善活動などという言葉を多用していると、かつて経済学を齧ったことのある人のなかには、覚えているであろうアダム・スミスの《見えざる手》のことををついつい思い出してしまいます。

通常、個人は、公共の利益を促進しようと意図しているわけでもないし、自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかを知っているわけでもない。意図しているのは、自分自身の安全と利得だけである。だが、こうすることによって、かれは、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった目的を促進することになる。自分自身の利益を追求することによって、かれは実際にそうしようと思ったときよりもかえって有効に、社会の利益を促進することになる場合がしばしばある。(アダム・スミス『国富論』第四篇第二章)

さらに彼は続けて《社会のためだと称して商売している連中が、社会の福祉を真に増進したというような話は、いまだかつて聞いたことがない》とまで言っています。最後の《社会の福祉を真に増進》の「真に」という単語ほど曖昧な、従ってアダム・スミスの真意がどこにあるのか、わかりませんが、このことを含め今となっては、これらの数行の文章は経済理論というよりは、彼の思いつきみたいなもので、時にはそんなこともあるよね?程度のものでしょうか。とはいえ、《意図しているのは、自分自身の安全と利得だけである》と言われると、私たちは心の内側を覗かれた時のようにビクッとしてしまうのも事実です。この自分自身の「利得」のなかには、経済的な利益はもちろん個人的な欲望や幸福、名声や理想さえも入っているとしたら、現代の私たちは、このフレーズだけは否定することはなかなか困難なようです。

私がたまたま興味を持つようになった《潜在自然植生》の事業にしても、社会貢献とか慈善活動のためというより個人的な自己実現への欲動みたいなものが、圧倒的なエンジンとなっており、将来的にはきっと環境という分野での社会貢献につながるはずだと、そこにも救いを求めることで、《自分自身の安全と利得》と《社会貢献》という対極にあるようなものの平衡を保とうとしているのかもしれません。

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