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宮脇昭編著《神奈川県の潜在自然植生》を読む01

宮脇昭さん編纂による神奈川県の植生の詳細を記録した幻の?貴重な名著《神奈川県の潜在自然植生》が世に出たのは、今からちょうど40年前の1976年のことですが、宮脇さんが県下の植生調査に動き始めたのが、更に時を遡っての1968年、今から半世紀ほど前になります。

森の力紙の上に記録を残すという分野での宮脇昭さんの最大の功績は1989年に完成したという全10巻から構成される『日本植生誌』であることはいうまでもありません。およそ10年ほどの歳月をかけて日本全国の植生を実際に足を運んで調査、編纂された『日本植生誌』は全巻で6,000ページにわたるほどの大著で、その編纂の様子は『森の力—植物生態学者の理論と実践』(講談社現代新書  2013年)にも紹介されています。

その50年ほども昔に行われた植生調査を、今頃になってせっかく紐解こうとしても、その事実はすでに古く、今日では参考にならないのではと、思われる方もなかにはおられるかも知れませんが、神奈川県の気候や大地の大きな変動が起こらない限り、例えば地球が寒冷期に入ったとか、日本列島の形状が変わってしまうほどの、造山運動など地殻変動の活発化などがない限り、宮脇さんたちが調査し記録した《潜在自然植生》の実際とその有効性は、これから百年後も、それ以降も半永久的に変わることはないと思われます。

ここで使用した《半永久的》という言葉は、宮脇さんがその著作のなかで何度か使われており、単にそのまま流用したに過ぎず、私が勝手に思いついたものではないのですが、最初にこの宮脇さんの言葉を見つけた時に、一度成立した多層群落を構成する《潜在自然植生》の森は、ヒトの手を差し伸べなくとも、なぜ《永久》に生育するとは言えないのか、と私には珍しく立ち止まって考えてみたことがあります。

その時の《半永久的》についての私の推論は、以下のようなものでした。40数億年もの時間を抱えるという地球の歴史から俯瞰してみると、今は氷河期の間に挟まれた温暖な気候の間氷期にあるとされており、次の氷河期に移行するまで期間、宮脇さんの定義による《潜在自然植生》はそれ自身であり続けるはずです。その期間とは一説にはおよそ5,000年とも言われ、従って、宮脇さんはこれを《半永久的》という言葉で表現されたのだと考えました。

とはいえ、最近になってわかってきたことを考慮すると、問題はそう簡単ではないようです。直近の氷河期の終焉は、日本で縄文時代が始まったとされる13,000年前ほどだそうです。その後、縄文海進という地表の氷が溶けたことによる海水面の上昇が続き、おそらく当時の日本列島の森は現在同様、その大部分が常緑広葉樹林で覆われるようになったと思われます。ところが、草創・早・前・中・後・晩の6期に分けられた縄文の後期(2,500 〜1,200 BC)および晩期(1,200〜800 BC)に当たる時代には日本列島が寒冷化してしまったらしく、例えば神奈川県のそれまで活動が活発だった多くの集落が急速に衰退していったこともわかっています。この気候変動が当時の植生にどの程度の影響を及ぼしたのか、残念ながら私の浅学では手に負えませんが、人々が住めなくなるほどの寒冷化とは、どのようなものだったのでしょうか。

歴史

ところで、二足歩行のアフリカの婦人はなぜ《ルーシー》と英語風に呼ばれるのでしょうか。答えは、足跡の化石を発見した発掘者がその時寂しさ紛れに聴いていた音楽、the beatlesの《lucy in the sky with diamonds》からとっさに命名した!が正解。

と、内容が大きく脱線してしまいましたが、おそらく縄文時代には森のほとんどを占めていた日本の《潜在自然植生》は現在どの程度の割合で残っているのでしょうか。宮脇さんは次のように述べています。

森の力日本文化の原点とも言われてきた照葉樹林帯、日本人の92.8%が住んでいる照葉樹林帯のいまはどうなっているか。われわれの50年近くにわたる日本列島各地の現地植生調査の結果は冷厳な数字を示しています。かろうじて残された鎮守の森や屋敷林や斜面林などを含めても、照葉樹林域では本来の森の領域=潜在自然植生のわずか0.06%しか残っていなかったのです。
(宮脇昭著『森の力—植物生態学者の理論と実践』講談社現代新書  p73)

と、現在の、特に関東地方以西の植生は、そのほとんどが人的干渉に遭ったものしか残ってはいないことがわかります。では、どうやって原植生を回復するのか、宮脇さんの《神奈川県の潜在自然植生》を紐解きながら、考えてみましょう。

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