宮脇昭編著《神奈川県の潜在自然植生》を読む03

自然植生 vs 現存植生

bookSs第 I 章は植生の概念、特に1970年代当時としては新しい概念だった《潜在自然植生》の意義と位置付けについて詳細が語られています。

まず、最初に生物共同体の植物的部分である植生は、まだ人間の干渉が加わっていない《自然景観域》と神奈川県を含め世界の文明国のほとんどの地域のように古くから人間が定住していた《文化景観域》に大別され、従って植生もまったく異なる様相を示すようになると言います。

《自然景観域》の植生は《自然植生》と呼ばれ、それは ” その立地の気候、土壌、地形、人間を除く自然の野生動物の影響も含めた自然の立地条件の総和が植物的に具現化されたもの ” であり、これに対して《文化景観域》のそれは《現存植生》と言い、” 自然条件の総和に人為的要因が加わった結果の総和である ” としています。

また、上記の2つの植生とは別に、” 人間が生物共同体の枠をはみだすような影響を植生やその立地に与えはじめたとき、あるいは与える直前の植生 ” のことをその立地の《原植生》であるという言い方をしています。そして、これらの植生を具体的に植生図に落とし込んだ場合、これまでは、現在の私たちが手に触れることができる植生の配分を地図上に描いた《現存植生図》と、かつて、そこにはどのような植生が発達していたのかという《原植生復元図》*の 2 種類のものしかなかったそうです。

なぜ《自然植生図》ではなく《原植生復元図》なのか、この差異が私にはよくわかりませんが、おそらく《原植生》は後述の《潜在自然植生》に近い概念として従来から考えられていたのかも知れません。

第三の新しい概念《潜在自然植生》

そこで、《自然植生》と《現存植生》の間に割って入るように新しく登場した概念が《潜在自然植生》というわけですが、このあたりの事情を本書では次のように書かれています。

ここで気になるのは、私が付けた赤いアンダーライン ” 理論的に考え得る自然植生は現在の自然植生と呼ばれる ” というフレーズの中で、” 現在の自然植生 ” の英文名が” todays potential natural vegetation ” となっていることです。

おそらくここは、英文(そして独文)名称の方が正しいとすると、” 現在の自然植生 ” は ” 現在の潜在自然植生 ” の誤植ではないでしょうか。こう考えると、次の行頭に” 潜在自然植生 “が来ても、文脈的にも問題なく繋がってくるのではないでしょうか。

という訳で、問題は何がその地域の《潜在自然植生》なのかを、判定する手法にあります。” …その立地の潜在自然植生に対する知見がなく、あるいは調査もされないで、その時々の人間の好みによって植えられても、生育しなかったりいつまでも管理費が嵩み、十分な環境保全自然の多様性回復に対しての役割は果たしにくい。 ” (本書p30)と40年も前に指摘されていた愚行が日本全国で今も繰り返されていることを思うと、《潜在自然植生》の役割は今日でもその意義を失うどころか、むしろますます重要になっているのだと思われます。この辺にも《潜在自然植生》が備えている普遍性みたいなものを見て取る事が出来るようです。

まず、ヒトの手や干渉が及んでない自然景観域での《潜在自然植生》の把握から始めます。

p30-1

問題は自然景観域とヒトの手によって生まれた代償植生域との境界の見極め方にあるとして、両者が複雑に交錯しながら分布している状況を、神奈川県の次のような事例で紹介しています。

p30-2

そして、神奈川県の大部分を占める標高700〜800m以下の植生についての記述に入ります。

このように、今も自然植生が残存している地域として海沿いの二つの半島名が出てきます。その一つ、真鶴には伊豆や熱海にクルマで出かける途中で「メシにしようか」と横道にそれるように、昼間でもひっそりと静まり返り、前の行く手から鬱蒼とした暗い森が迫ってくるような細い道の先にある料理屋を訪ねたりしたものですが、今にして思えば、その森が上述のような常緑広葉樹林だったのだのでしょうか。三浦半島にしても、私にとっては「三崎のマグロでも、たまには食べに行こうか」と、横横道路に乗って半島の端まで直行したことしかなく、自然の森の印象はないのですが、空からの写真(左)を見てみると、半島の中央やその西側、ちょうどこの備忘録にも《植生の実験場》として紹介したこともある葉山の湘南国際村のあたりに拡がる森を指しているのかも知れません。

真鶴&三浦

上述のようにわずかに残っている自然としての《潜在自然植生》を構成する具体的な樹種名が出てきます。これらの高木—亜高木—低木—草本の多層群落で構成されている木々はもちろん、これらの《潜在自然植生》を潰しヒトの手によって人工的に作られてきた《代償植生》のことも、それら一つ一つの葉のカタチをはじめとした樹木の全体をきちんと把握し、頭の中に蓄えておく必要があります。私は未だにまだまだなのですが、以下の記述にある樹木のことをスラスラ説明できるように早くなりたいものです。

見開30-31

また、これら樹木の記述がある隣のページには、上のようにページ全体を使って、その多層群落構造を作っている樹林の大きな写真が掲載されています。ヤブコウジ—スダジイ群衆の林分(鎌倉)とのキャプションがつけられており、この樹林の写真を眺め見て、素晴らしい景観だと心から思えるかどうか、ここが自然を見極めようとする人か否かの分岐点になる、と言ってもいいでしょう。

とは言え、私たちが日頃から目にしている眺めがいいとされる林相は、人工的に配置され、刈り取られ、掃き清められ、おまけに木製のベンチまで置かれたような、ランドスケープ管理されたものであり、宮脇昭さんもその著作の中で度々指摘されているように、多くの人はその一見心地好さそうな景観を自然だと思い込んでいるフシがあります。

そういう私も、これまでの長い人生の大部分はその「多くの人」に属していたのですが、今では希少価値のある、滅多にないこのヤブコウジ—スダジイ群衆の写真を見た途端に、ここにある森の豊かさはもちろん、この森の土壌を含めた生物多様性が創造する世界に思いをはせるという豊富な想像力まで獲得することができるようになったという訳です。それにしても、「多くの人」が本来の自然を身近に思わないのは、何故でしょうか。大きな理由の一つは、《潜在自然植生》として残っている樹林があまりにも少な過ぎることです。「今や天然林としての常緑広葉樹林は(本来の地域の)わずか1.6%ほどが残っているだけである」(森林総合研究所ウェブサイト)とあるように、宮脇昭さんでなくとも、多くの専門家がこの困難な現況を認めるところです。

では、本来の自然は実際にどのようにヒトの手を加えられ、撹乱されて今のような《代償植生》へと変転してしまったのでしょうか。本書では次のような図表でわかりやすく紹介します。

ヒトの影響とそれによってできる《代償植生》

代償植生

上図は自然植生であるカシ林が、どんな手を加えるとどんな《代償植生》が現れてくるのか、そのまま放置した場合の事例としての社寺林以外に、6タイプの《代償植生》が示されています。ここには、人工林、薪炭林の二次林としての里山をはじめ、関東以西であれば、山の麓から平地の農地まで私たちの緑のほとんどは、これらの様々に異なる《代償植生》に覆われていることがわかってきます。この状況は今から40年も前のことですが、その当時、宮脇昭さんが次のような問題意識を持って課題を提起していることは、注目に値することではないでしょうか。

新しい時代に対応した環境保全林

環境保全林

このように、これからの時代には、その昔から故郷の森として無言ながらも長い時間をかけて、故郷にしっかりと根を下ろしてきた《潜在自然植生》を選択することが、科学的にも正しいことであると断言しています。しかも、その理由は明確です。まず《潜在自然植生》は管理不要であること、従って他の植生のように莫大な経費が不要であること。そして何よりも、時間とともに豊かな生物多様性をはじめとした(ヒトにとっても有益で嬉しい)環境保全の多様な機能を高めてくれるからです。

上に書かれた、文明に対する警告の文ともいうべきこの内容は、その当時の社会に多少は受け入れられたのでしょうか。例えば神奈川県では(本書が神奈川県の名で編纂されているにもかかわらず)ここで提起された課題を、その後行政の施策に反映したような形跡を私たちは見ることができません。それどころか「常緑広葉樹林は、水源林には向かない」と県の水源林再生施業マニュアルに明記されているのが現実です。

《潜在自然植生》の判定手法

この章《 I  潜在自然植生の概念と潜在自然植生図》の最後には、人為的な影響や撹乱によって、自然植生から後退し、変形を余儀なくされた現存植生が成立している場合、ではどうやって《潜在自然植生》を割り出すのか、その判定手法について以下のように記されています。

p34

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