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心ある人は、ブナの苗木を植えよ。

最近、《潜在自然植生》のことを知らない森の関係者はモグリだという、根拠も定かではない言説を耳にしたことがあったような気がしますが、はたして私の一方的な想いだけの空耳だったのでしょうか。先日、あの昭和の時代をまるで一瞬の夢のようにtv画面を駆け巡った木枯紋次郎を読んでいたら、どういう訳か《潜在自然植生》にたどり着いてしまったよ。という老人に逢ったことがあります。どうやら森の関係者でなくとも、普通の人でも《潜在自然植生》に出逢うような時代になったことだけは本当のようです。

実は、この老人はここんところずっと続いてきたという、たっぷりヒマな時間を持て余した結果、何とかこの倦怠を突破して人生のフェーズを一段アップするために考えついたのが、どうやって死んでやろうか?!というのっぴきならぬ課題でした。この難問を自分なりに解き明かし自らの死を具体化できると、あとはそこから逆算してその最終に向かって、これからどうやって生きるか?!というパラドックスに直面することになったそうです。結果的にヒマから逃れることができて大変良かったと言っていました。

以下は、その彼の手記の一部分を抜粋したものです。

木枯らし紋次郎を読んでたら、そのうち《潜在自然植生》にたどり着くこともある。

今もそうだが、数年前から時間を持て余し、面白そうな本を見つけ出してはヒマに任せてその世界に沈殿することの多かった私は、ある時こんなページに出会ってしまったのである。

心ある人は、ブナの苗木を植えよ。この簡潔な言葉で綴られた遺言らしき紙切れを懐に持ち歩き、右手にはブナの苗木を一本つかんだまま、ネパールの山中あたりで行き倒れ、半ば朽ち果てた姿で発見されたいものだと、自らの死像について語っていたのは、その昔、木枯らし紋次郎でならした中村敦夫さん(『私の死亡記事』文芸春秋社)だが、魂も肉体もこの土の大地という自然に還りたいとする彼の文章を読んで、すぐに思い浮かべたのが戦後文学者=大岡昇平の言葉だった。

大岡はかつて35歳の老兵として、すでに敗色濃厚な比島戦線へと連れて行かれる途中に立ち寄った九州の門司の港で、いよいよ迫ってきた死の恐怖に怯えながら、何とかして正気のバランスを保とうと格闘した心の様子を次のように語っている。

《私は先で私を待ってる死について考えた。岸に近く一つの岩がわずかに頭を水に出し、そこに波が戯れていた。その波を見ながら、私は死んだ私の体は分解して、こんな水になってしまうであろうと思った。その時このいつまでも生きていたいらしい意識は無になっているであろうが、水はいつまでも宇宙に生き続け、この波のように動いているであろうと思った。その考えに私が慰められたのは、私の体から残ったものがまだ動きうるということであった。》(『再会』大岡昇平集2 p402-403  岩波書店 1982)

大日本帝国陸軍の二等兵大岡が彼の死を、陸上ではなく海上で予想したのは、その当時制空権も制海権も失っていた日本の海上輸送船は米軍の格好の餌食となって次々と撃沈されており、大岡の場合もおそらく比島にたどり着く前の船上でやられてしまいそうだと半ば諦めていたからだと思われる。彼はすでにスタンダール研究家として西洋の近代合理主義を机上では経験済みの人間だった訳で、海のなかに投げ出され溺れ死んでしまった自分の肉体が化学式 H₂O で表される水素と酸素の化合物に分解され、それらの分子はずっとこの世に残り漂ってくれるはずだと自らを慰めていたとしても、決して不思議ではないはずだ。

このように陸と海の違いはあっても、また自ら望む望まないの違いはあっても、死んだ肉体は生物の性質を有さない水や無機質になって自然に還ってしまうとすることで安泰を得るに至ったと思われる二人の愛すべき人物の言葉とその共通する知性を発見できたことは、何となく印象深いものでもあった。

加えて二人に教えてもらったことが、多くの生き物がそうであるように、私の死んだ肉体は自然のなかでそのまま自然に朽ちて分解され、最後にはただの分子や原子となって地球を循環する生態系の一部分を構成する宿命にあるとすると、木枯らし紋次郎の遺言にある死に方もそんなに間違ってはいないこともわかってきた。

その後しばらく経ってはいたようだったが、何だかどこかで聞いたようなタイトルの本を書店で見つけ、思わず手を伸ばしてしまったのは、この俳優と作家二人の話しにまつわる、そんな余韻がまだ残っている頃だった。その名も《木を植えよ!》(宮脇昭著  新潮選書  2006)。この時、紋次郎の遺言から最後の5文字だけを戴きましたと言っているように、私には読めるこの本を手に取ってしまったばっかりに、今の私があるように思えると同時に、振り返ってみると、これが私の使用前・使用後のちょうどその決定的ともいえる分岐点だったようだ。

その当時、私の樹木についての心情はどんなものだったのか?ここに、ちょうど私が経験したような感情の移ろいを綴ってくれている本があるので、その本《森の力》(浜田久美子著・岩波新書・2008年)から抜粋してみよう。

上のa〜dは、最初は森の緑は一つにしか見えなかったこの《森の力》の筆者が、次第に森の樹木についての知見を獲得するようになるそのプロセスを綴ったものだが、 私が《木を植えよ!》を手にした時期は、さすがにaではなくて、すでにc、dレベルの問題意識を持っていたように思える。

上に引用した文面からおおよその見当がつくように、《森の力》の筆者はその後、里山の雑木林の保全・再生へと舵を切ることになる。ただ気になるのは、針葉樹 vs 広葉樹の二項対立のまま、この本の最後のページまで行ってしまい、《潜在自然植生》としての常緑広葉樹という単語が用いられないままに終わってしまったこと。そして何よりも雑木林は時代から「不要になった」存在としての認識があるにも関わらず、この課題を根本的に解決する答え(solution)を出そうとはしていないことである。

(以下、省略)

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と、この老人の手記は、この後もダラダラとどうでもいいような話しが続くのですが、今一度ここまでを読み返してみると、彼の心情は何と私のそれと似ていることか、ひょっとするとひょっとして、彼は私なのかもしれないと思わずにはいられないのでした。

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