潜在自然植生と人工林(仮)

宮脇さん的な視点の欠如

これまで何度となくこの備忘録でも指摘したことですが、宮脇昭さんが全国各地で音頭をとって推進している「いのちの森作り」いわゆる《宮脇式植樹法》について、一般的な評価は今どのあたりにあるのか?が、私には大変気がかりなことの一つになっています。

東日本大震災以降の宮脇さんは、特に都市部や生活空間における防災・環境保全林の必要性を緊急の課題として力説し、実際にその観点からの植樹活動に軸足を置いていますが、その理論と実践の根幹にあるのは、その土地本来の植生である《潜在自然植生》による本物の森づくりです。宮脇さんはこれを「いのちの森作り」という言い方をしています。下図はその防災・環境保全林が人々の生活にもたらす機能の一覧になります。

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このように宮脇さんの積極的な植樹・植林活動が全国各地で進む一方、その他の多くの現場では宮脇さんの考えやその影響を眼にしたり、聞いたりすることがほとんどありません。私にはこのギャップが不思議なことのように思われるのです。先日の備忘録《人と自然の共生のために何ができるか》でも少し触れたように、京都で開かれた「国民参加の森林(もり)づくり」シンポジウムの記事を読んでも、森の保全という根源的&普遍的なテーマ設定にもかかわらず、その土地本来の多層群落の森=潜在自然植生の森のことを知る私にとっては、そこで討論されているレベルが深遠なるテーマにはまったく追いついていない感をぬぐえないのです。つまり、宮脇さん的な視点の欠如です。これは実は深刻な問題のように思われます。

持続、永続可能な山と人工林

作家の池澤夏樹さんがこのシンポジュウムの基調講演で「山が荒れれば海も荒れる。収奪的な林業はもうないと思う。さらに知恵を出し、持続、永続可能な山であって欲しいと思う。」と少し俯瞰するような長期的な視点から放たれた問題提起に対して、収奪的でない林業って可能なのかを含めてその解決策を討論された形跡が見当たらないばかりか、相変わらず山の自然を劣化させる様々な被害や現象を嘆き、横並びの典型のようにも聞こえる産学民公のさらなる連携を訴えるだけに終わってしまうという困難な状況を見せつけられる思いがしました。

この困難性の最たる要因が、日本の山の70%を占めるといわれる民有林にあることは私にもわかります。民有林の多くはこれまで人工林や里山として人間に活用されてきました。ところが今では、木材の生産工場としてスギやヒノキ、マツなどの針葉樹の苗木をせっかく植え育てながら放置される傾向にある人工林(下図はその原因となった輸入材と国産材の価格比較)、そして化学肥料や化石燃料がなかった時代には人々の暮らしに不可欠だった里山の雑木林の荒廃。そんな人工林や里山を持つ民有林は、その商品価値や利用価値がなくなればヒトの手も離れ、取り残されるのも避けられないでしょう。そこで荒廃を食い止めるためにと、今はボランティアを主力とするマンパワーと税金を投入し、民有林の保全に大変な苦労をしているのだと思います。

材木価格

今後も人工林と雑木林に人々の労力とコストをかけ、森の保全を続けて行くことは必要でしょう。その裏には、かつての林業の夢をもう一度!という願望が潜んでいるのかも知れません。また日本の伝統的な里山の景観を蘇らせるという日本的な美の追求も人々を後押ししているようです。しかし他方では、商品価値がなくなったからといって管理放棄された人工林を保全するために、このまま税金の投入をただただ続けるだけでいいのでしょうか。ヒトの眼に美しい景観だという理由でこのまま里山にもマンパワーとコストをかけ続けるのでしょうか。

人工林から《潜在自然植生》の森への転換

私は、池澤夏樹さんが提起した「持続、永続可能な山」を文字通り目指すのであれば、これら人工林や雑木林の伐採跡地の一部を、その土地本来の植生である《潜在自然植生》の森=ふるさとの森(宮脇さんが言う本物の森)へと転換することもその方法の一つであると思います。その土地本来の植生である《潜在自然植生》の植樹だと、苗木を植えて3〜5年経てばヒトの管理は不要となり、自然の成長プロセスに任せることができるからです。その後、自然環境の破滅的な変化に遭わない限り、この樹木群の森は末永く持続する。宮脇さんは「次の氷河期が来ると予想される9000年先までもつ命を守る森をつくることができる」(『森の力—植物生態学者の理論と実践』2013年講談社現代新書  p200)と大胆な予想をしています。つまりほぼ「持続、永続可能な」森が出現するという訳です。

このように、最初は人工林の数パーセントを《潜在自然植生》に転換し、次の伐採時もその跡地を《潜在自然植生》にする手法で針広混合林に衣替えし、少しずつ針葉樹と広葉樹の割合を変えていけば、マンパワーやコストなどヒトの手も少しずつ離れていくはずですが、問題はこの場合、山を木材の生産工場とする今までの認識を人々は捨てる必要に迫られるということです。厳しい結果を受け入れることは、可能なのでしょうか。結局はここに焦点が集まってくるようです。同様に里山の雑木林を《潜在自然植生》の森に転換する場合も、自然はヒトの美的景観には関係なく自然淘汰のプロセスに従って成長を続けるため、せっかくこれまでヒトの労苦と費用をかけて保全した二次林が持つ独特の風景は早晩に見られなくなります。これを許容することが求められます。果たして人工から自然への転換は、まず人の頭の中で可能でしょうか。

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