全国都市緑化よこはまフェアと防災・環境保全林

《歴史と未来の横浜・花と緑の物語》をテーマに
美しい花と緑豊かなまち横浜の実現。

上の2行のフレーズを開催理念として掲げて《第33回全国都市緑化よこはまフェア(ガーデンネックレスよこはま2017)》がもうすぐ3/25から6/4までのおよそ70日間、長期にわたって開かれるそうです。会場の一つになるという横浜のみなとみらい地区から山下公園にかけてのエリアには、多彩な草花の苗やそれらを植える大きな緑色のトレイ、そしてこのイベントをprするパネルなどが持ち込まれ、今はその準備の真っ最中のようです。

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写真左上:通りに現れた巨大な告知パネル。写真右上:草花の苗を植え、歩道わきに並べられたトレイ。写真左下:横浜美術館の芝生の前に並んだ桜の苗木。写真右下:広場中央に花壇用に集められた春の草花類(横浜市中区みなとみらい地区にて)

横浜市と共にこのイベントを主催する《公益財団法人都市緑化機構》のウェブサイトには機構の目的として《都市における良好な緑化空間の創出やその管理、都市施設の美化などを推し進めることで、緑豊かな都市作りを目指そうとするもの・・・・・》云々*とあるように、この横浜でのフェアも市内の観光スポットや地域の人々の憩いの場である公園などで都市の緑を演出することで、都市を行き交う人びとの心を癒し、都市空間でも緑を愛でる心を醸成することに狙いがあるようです。

このような街並みの改善や緑化という課題は、これをそのまま推し進めてゆくと《都市景観・都市計画》という巨大なテーマになってしまいそうです。なので、その方向には深入りしないで、このフェアについて、ただひとつだけ《潜在自然植生》の植生士としての、ちょっとした考えを述べてみることにします。

これから、都市の緑に欠かせないのが防災・環境保全林、
という視点はどうでしょう。

6年前に私たちを襲った東日本大震災の経験は、私たちの自然や環境についての考えをもすっかり変えてしまうほどのインパクトを与えましたが、生活空間や都市空間での緑とその景観についても、これまでの歴史やこれからの未来をも俯瞰するような視点が必要なことを、私たちに教えてくれたような気がします。都市の緑がヒトの心を癒し、憩いの場を演出してくれるという従来からの環境美化の観点に加え、今後起こるかもしれない自然災害から生活・都市空間を守り、防災の役割も果たしてくれる緑の景観が作れないだろうかという可能性を見出す視点です。

私の植生についての備忘録は、その多くが宮脇昭さんの著作からの引用によって構成されていることは露骨なほど明らかですが、今も『神奈川県の潜在自然植生』(発刊:神奈川県教育委員会 ・非売品)という宮脇昭さんが今から40年ほど前の1976年に編纂された幻の名著の詳細をシリーズで紹介しているところです。このように40年前まで遡り、今日までの宮脇昭さんの理論と実践の進化・発展のプロセスを改めて辿ってみると、大変興味深いことがわかってきます。

その一つは、宮脇昭さんが《潜在自然植生》理論を重厚なものに育て上げてゆくのと比例するように理論だけではなく、実践の分野でも数多くの成功事例を残されていることです。今日では日本国内はもちろん世界中で、その土地本来のホンモノの森を数多く作り育て上げていますが、その先駆けとなったのが、1970〜1980年代に混植・密植による宮脇式《潜在自然植生》を企業環境保全林に応用した一連の植栽実績ではないでしょうか。

この時代は、いわゆる高度経済成長という光り輝くコインの裏側で環境汚染と自然破壊が立て続けに起こり、大きな社会問題となっていました。ヒトの生活の基本である空気や水、土壌はもちろん動植物にまで拡がってしまった、主に企業活動による深刻な環境悪化の対応策として、大きな企業の工場には次つぎと樹木や草花が植えられ、いろんな手法でいろんな樹木を植栽する環境保全林が作られたものです。その一角を占めたものが宮脇式の《潜在自然植生》でした。

宮脇式《潜在自然植生》にとってのその第一歩となったのが、1973年の新日鐵大分製鉄所での環境保全林の森づくりでした。その頃を振り返りながら宮脇昭さんは、懐かしそうに次のように語っています。

・・・急速な自然の開発、土地や産業立地、交通施設の発展に伴って、我々の祖先がかつて集落、町づくりに際して残し、育ててきたふるさとの木によるふるさとの森が激減しているため、鎮守の森に代表される本物の森づくりが必要であるという私の主張は、当初だれにも相手にされなかった。
60年代の後期から70年代にかけて、急速な新産業の発達、開発や都市化による自然の乱開発、自然破壊の波に対し、期せずして住民サイドからいわゆる公害の告発が燎原の火のごとく全国的に広まった。しかし多くの企業は、当時まだ一過性の反対運動で、少し頭を低くして告発をやりすごそうという姿勢をとっているように見えた。
そういう状況の中、たまたま東京の経済同友会で私の主張を話す機会があった。世界最大の製鉄会社・新日鐵にはできたばかりの環境管理室があり、その初代室長であった武村健氏から翌朝7時に研究室に電話が入った。
「協力してほしい。あなたの言う森を各製鉄所のまわりにつくりたい」
当時、新日鐵は公害の元凶のようにいわれ、また私がいた横浜国立大学は体制批判の急先鋒と言われていた。よく声をかけてくれたと思う一方で新日鐵に協力すると何を言われるかわからないと正直言ってためらいもあった。私は武村さんたちに言った。
「植えられた植物は命をかけている。もしあなたたちに職を賭してでもやるだけの意志と実行力があれば、私も泥をかぶっても協力しよう」(宮脇昭著『鎮守の森』2007年  新潮文庫  p91-93)

以上『鎮守の森』に綴られた、当時を象徴するようなこの物語には続きがあって、大変興味深くもあり困難でもあるプロセスを経ながら、その後の環境保全林のモデルになるような大きな成功を獲得するに至っています。環境や緑に関心のある皆さんには、是非とも手にとって読んでいただきたい一冊です。この事業が成功した一番の理由は、宮脇昭さんの言葉を借りると《職を賭してでもやるだけの意志と実行力》にあったことを『鎮守の森』の読者は知ることになるのではないでしょうか。

このようにして宮脇昭さんの理論と実践は、彼自身にも《職を賭してでもやるだけの意志と実行力》を課し続けながら(一説によると、すでに千を超えているのではないかとも囁かれるような数の)宮脇式《潜在自然植生》の環境保全林を全国各地の工場や施設などに誕生させることになったのですが、このような企業の森づくりは、つい最近までは企業にとって、彼らの社会的責任(CSR)の一環としての環境に配慮した手段として捉えられていました。《環境保全林》というネーミングがこのことを表しています。

ところが、宮脇昭さんは《環境保全》に合わせて《防災》という働きも同時に、ふるさとの森には備わっていることを当初から指摘されています。この《防災》の概念が彼の著書に最初に登場するのは、冒頭でも触れた『神奈川県の潜在自然植生』(発刊:神奈川県教育委員会 ・非売品)からだと思われます。今から40年ほど前の1976年に編纂されたこの本には、すでに次のように書かれています。

都市内部での緑地は形態的には次のように区分することができる。
第一に鳥獣を含めた豊かな生物層が存在する森林。
第二に生産的機能を持つ農林地。
第三に防災・生活環境保全・過密防止などに供される空間(環境保全林)
第四に緑の保養所、レクリエーションのための空間。
これら目的別に区分された緑地は形態的には違っているが、本質的にはおなじで、機能的、内容的には互いに錯綜したものであり有機的な関連がある。
(宮脇昭編著『神奈川県の潜在自然植生』1976年    p262-263)

大震災にも耐え抜く防災・環境保全林

このように、『神奈川県の潜在自然植生』では《第三に防災・生活環境保全・過密防止などに供される空間(環境保全林)》としか書かれてなくて、《防災》の具体的なところまでは言及されていないようですが、宮脇昭さんは1970年代の頃から都市内部の施設空間・生活空間における緑地(森林)には《防災》という基本機能も備わっていることを、この当時から示唆しています。

以降、宮脇昭さんは彼の著作物のなかで都市や生活空間における緑の《防災》機能の大切さを、次第に具体例を例示しながら、繰り返し主張するようになります。いくつかの事例を彼の名著のひとつである『木を植えよ!』(新潮新書  2006年)のなかから引用してみましょう。

・・1976年10月、山形県酒田市では、折からのフェーン現象の影響もあり、約1700戸が全焼する大火事に見舞われました。市内に本間家という旧家があり、常緑のタブノキが二本立っていました。照葉樹林帯の北限に近かったのですが、かなり大きく育ち葉を茂らせていました。驚くことに、大火はそのタブノキで止まったのです。
その後、酒田市の依頼を受けて、私たちは三年間にわたって現地植生調査を行いました。その結果、酒田市の潜在自然植生は海岸沿いではタブノキやそれを支えるヤブツバキ、シロダモ、モチノキ等であることを確認し、それらの樹を使った防災林づくりを提案しました。当時の走馬大作市長は、「タブノキ一本、消防車一台」というかけ声のもと・・・(途中略)・・・森づくりを進めました。(同書p50-51)

照葉樹は一般に葉が厚く、特にタブノキなどは火事のときには「水を吹く」といわれるくらい水分を含んでいて、火にも非常に強いのです。このように照葉樹の、火事や台風、集中豪雨などに対する強さは今までも明らかになっていましたが、地震に関しての実体験はこれまでありませんでした。
1995年1月17日の未明、阪神・淡路地方を襲った大地震は6000人以上の犠牲者を出す大惨事となりました。・・・(途中略)・・・常日頃「潜在自然植生の主木群は地震にも強い」と主張していたので、被害の小さいことを祈りながら、もし阪神地方の潜在自然植生の主木である照葉樹が全てダメになっていれば、研究者として責任を取らなければいけない、と少々不安になりました。・・・(途中略)・・・しかし、土地本来の主木であるアラカシやヤブツバキ、モチノキ、また潜在自然植生が許容するクスノキなどが一列でも植えられていたところでは、その地点で凄まじい火の嵐が止まっていたのです。こうした場所は、住民の一時的な逃げ場所、逃げ道になっていたはずです。(同書p52)

同様のことは、14万人もの死者を出した23年9月1日の関東大震災でも実証されています。東京都墨田区にあった陸軍被服廠跡地は40,000㎡の空き地で、周りを板塀で囲まれていましたが、そこにおよそ40,000人の人々が炎に追われて逃げ込みました。しかし、わずか一時間足らずで38,000人、実に95%の人が亡くなったといいます。・・・(途中略)・・・そこから約3キロ南にある当時の岩崎家別邸(現在の清澄庭園)にも20,000人が逃げ込みました。そこでは赤ちゃんがひとり踏まれて死亡しましたが、他に亡くなった人はいません。このちがいはなぜ起きたのでしょうか。岩崎家別邸の周りには、土地本来の潜在自然植生の主木である照葉樹が植えられていたからです。狭いところはわずか2〜3mの幅でしたが、照葉樹の樹林帯が20,000人の命を救ったのです。(同書p53)

そして、東日本大震災以降に刊行された宮脇昭さんの著作のひとつ『森の力—植物生態学者の理論と実践』(講談社現代新書  2013年)のなかでは《東日本大震災の大津波を生き抜く》という見出しをたてて、《潜在自然植生》が果たした役割の実際とその可能性を次のように読者に語りかけることになります。

土地本来のホンモノの樹種は深根性・直根性であるがために、火事、台風、洪水、地震にもビクともしない。ならば大津波に対してはどうなのか。試される日がまたもや突然やってくるのです。・・・(途中略)・・・
海岸沿いの「白砂青松」と謳われたマツ林は大津波によってことごとく倒壊。しかも根こそぎ倒れたマツが津波に流されて内陸まで達し、家屋や車などに襲いかかるという二次的災害をもたらしている所もありました。その一方で「白浜青松」の林床で自生していたマサキやトベラ、ネズミモチなどの常緑広葉樹は生き残っていました。
2回目の調査で訪れた宮城県南三陸町では、大きなタブノキが太い直根に支えられて、津波を押し返したかのようにしっかりと生き抜いていました。また、岩手県の大船渡中学校近くの道路沿いのタブノキなどもたくましく生き残っていました。
さて、1993(平成5)年に地元の人々と一緒に木を植えた、仙台市に隣接したイオン多賀城店はどうなっていたのでしょう。建設廃材などを混入した幅2〜3メートルほどのマウンドの上には、タブノキ、スダジイ、シラカシ、アラカシ、ウラジロガシ、ヤマモモなどがそのままの状態で元気な姿を見せてくれました。イオンでも震災から一週間後の3月18日に多賀城店で独自調査を行いました。私たちが植えた木々が大津波を生き抜いたばかりではなく、大津波に乗って流されてきた大量の自動車などをしっかりと受け止めてもなお倒れていなかったのです。
これこそがホンモノの森の力です。(同書p158-161)

以上のように、宮脇昭さんが「土地本来のホンモノの樹種」と呼ぶ《潜在自然植生》は、その優れた深根性・直根性のためでしょうか、押し寄せる津波に対しても有効な植生であることが実証されたとしています。この震災の直後、宮脇昭さんは、土地本来の樹種による防災・環境保全林=「森の防潮堤」づくりを提言。このプロジェクトが実行に移され、東北の海岸線に沿ってポット苗が植えられる様子は『森の力—植物生態学者の理論と実践』でも紹介されており、目を通していただければと思います。

引用ばかりになってしまいましたが、「美しい花と緑豊かなまち横浜の実現」を考えるにあたって、これからは《防災・環境保全林》が果たす役割も豊かな緑のなかに追加することも必要な時代になったのではないでしょうか。

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